公益社団法人岩手県猟友会

よもやま話

狩猟体験記 『 鹿狩り 』

三陸町猟友会会長 千葉 信夫

 おやぶんと呼ばれた鹿撃ち名人がこの夏に銃を置こうとしている。 おやぶんこと菊地正雄さんとの初対面は、私が銃を手にした26歳の秋、解禁間近の地区猟友会の集まりであった。しかし、それまでハンターとは無縁であった私には菊地さんの正体は知る由もなかった。
 やがて2年目のシーズンを迎えた。当時はまだキジ・ヤマドリは多く、初心者にも猟果は充分過ぎるほどであったが、折に触れて耳にする鹿猟に強い興味を抱く ようになった。終猟も近いある週末、意を決してグループが集まるという製材所に顔を出した。そこには菊地さんを慕う個性豊かなハンター達が集まっており、 新参者の私を快く迎え入れてくれた。

菊地 正雄氏(左から2番目)  筆者(右端)


 この日始めて経験することとなった鹿猟は、私にとってまことに新鮮なものだった。そこにはグループを一糸乱れずに 統率して獲物を仕留める「おやぶん」と呼ばれる44歳の鹿撃ち名人、菊地さんの姿があった。この日から菊地さんを師と仰ぎ、以来30年余り数々の教えを授かり、家族ぐるみでお付き合いを頂くことになった。

【阿吽(あうん)の呼吸】
 おやぶんを語るとき、欠かすことの出来ない一人の故人がいる。「たんこ(屋号)のとー(とうさん)」こと竹下昇さんである。 たんこのとーは親分より一回りも年長の勢子の名人であった。グループ猟は気ままな単独猟と違ってむずかしい。グループ猟には 往々にして要らぬ船頭が出現し、山でひと悶着を起こすことも多々ある。しかし山と鹿を知り尽くしたこの二人の存在は絶対的であり、絶妙のコンビであった。山の段取りはおやぶんの一言で決まり、たんこのとーは手綱を引くように立ちの前まで鹿を連れてきた。 トランシーバーなどない時代、二人の阿吽(あうん)の呼吸は見事なものだった。

【腕前】
 おやぶんの腕は誰もが認めるものだった。「立ち」に向かう姿は自信に満ち溢れ、銃声がするとそこには間違いなく獲物が転がっていた。おやぶんの腕前を物語る一つのエピソードがある。グループで山を移動中の事であった。谷を挟んだ優に150mを越える向かいの 斜面を登る数頭の群れを発見した。すぐさまライフル銃の猟友が挑戦したが、オープンサイトでは容易な距離ではなく、発射した数発は獲物にかすりもしなかった。あきらめかけたその時おやぶんが肩から銃を下ろし弾を装填した。尾根に向かう群れが一瞬木立に止まった瞬間、銃声とともに大きな獲物があっけなく斜面を転げ落ちた。「散弾銃では無理だから止めたほうがいい」と思わず口走ってしまった自分を恥じることとなった。

【教え】
 おやぶんからの教えは数え切れないほどある。その中でも特に口うるさく言われたのは、上手になりたければ九粒弾は絶対使うな、 逃がしても良いから一丸で肩先を狙えとの教えだった。この教えがそのまま後で手にするライフル銃の基礎にもなった。 また、鹿を撃つときは急がずゆっくり狙えともよく言われた。いくら走る鹿でも地形によっては立ち止まる。たとえ立ち止まらないまでも必ずスピードを落とす場所がある。そこの見極めが鹿を射止めるコツだとも教わった。経験の浅いハンターは鹿の止まるのを待ちきれず引き金を落とし、鹿と一緒にパニックにおちいる。まさに的を射た教えだった。こうして鹿狩りの基本を叩き込まれた私は、 その後おやぶんと共々にライフル銃を手にすることになり、恵まれた狩猟環境のなかで二人が射止めた鹿の数も千頭をはるかに超える までとなった。

【文化の継承】
 時の流れは早い。おやぶんとの出会いから31回目の秋が間もなく訪れる。名人と言われた男が山を去り、かく言う私も数年で還暦を迎える。荷鞍の沢の有害駆除で七頭の群れに勝負を挑み、全て倒してみせた若い頃の気迫はもうない。孫を持つ身になってから猟欲は獲物を慈しむ気持ちに変わりつつある。しかし、鹿猟は伊達の殿様の時代からこの土地に続く大切な文化でもある。数少なくなった猟友達と共にこの地域の狩猟文化を守って行きたいと思っている。