和賀猟友会 宮杜 惇
自然界の異変とも思われる現象が増え、ハンターにとって関心の深い狩猟鳥獣のバランスの異変も、誰の目にも明らかになってきた。
言うまでもなく、野生鳥獣のバランスは、捕食者の一定数が存在し、はじめて保たれる。
捕食者が増えれば被捕食者は減り、被捕食者が増えれば、捕食者も増える。
このように、バランスをとる自然の精妙な仕組みに驚く。
最近の鳥獣のバランスの崩れについては、その原因がいろいろ言われている。しかし、究極は、「人間の活動」が、その根底にあるのは、論を待たない。だとすれば、『「ヒト」こそ有害駆除の対象とすべき』と言う笑い話も成り立つ。
さて、「絶滅危惧種」と言われるハンターの減少がバランス崩壊の要因の一つであることは、誰もが認めるであろう。
狩猟者の増加を願って、皆さん、それぞれに努力なされている。
私も今から六年前、時の環境大臣小沢鋭仁氏に、『「現代の刀狩り」がもたらすもの』と題する意見書を提出した。
同時に提出した「全猟」誌には掲載されたものの、環境庁からは、何の反応もなかった。
反復になる故、内容については詳述しないが、要旨は、以下のようなものであった。
1972年の大石環境大臣の全国禁猟区案をきっかけに、浅薄な自然観に基づく各種愛護団体等の狩猟攻撃、マスコミ等の反狩猟キャンペーンにより、「狩猟イコール悪」という風潮が社会に広まった。
その風潮に便乗するかのように、銃刀法の改定や適用の拡大解釈、厳格化、それによる諸手続きの煩雑化が、始まり、嫌気のさした狩猟者は、続々、銃を手放していった。
勿論、新規に狩猟を始めたいという者も激減した。狩猟者の激減は、自然環境そのものにも重大な影響を及ぼす。十年後を想像すると慄然とする。何とかして欲しい、という趣旨であった。
幸い、我が日本猟友会会長、佐々木洋平氏らの努力により、いくらか改善されたものの、道未だ遠しである。
アンバランスとなって、被害が顕著となった鳥獣に当局が報奨金を出し、増えた分を減らそうというのは、一つの方法であろう。
しかし、それは付け焼刃的対策であり、根本的対策ではない。
カナダやアラスカで見聞きした時、痛感したのであるが、狩猟鳥獣の種や数の決定については、綿密なフィールド調査に基づく生態の把握、あるべき適正生息数の割り出しは、勿論、そのための人員確保、予算等が絶対的に我が国は不足しているのではないか。もっともっと基礎を固めるべきである。
一方、我々狩猟者は、有害鳥獣駆除を第一義として狩猟をしているのではない。人類発生五百万年以来、綿々として続いて来た狩猟採集生活、原始的本能の赴くまま、自然の中で狩りを楽しみ、それを趣味としているのである。
ただ、狩りという行為の結果が、いくらかなりと社会のお役に立てたのなら嬉しいし、要請を受ければ、協力を惜しむものではない。
我々は、さもしい賞金稼ぎではない。誇り高き狩人である。
話は変わるが、今年はクマがあちこちに出て話題になった。
本来は、ヒトを恐れ、避けるはずのクマさんが、人を避けなくなったと、思われる。きっと、ヒトが怖いものでなくなった・・・のであろう。
先日、子供の頃、犬に追いかけられた恐怖がトラウマとなって、成人となった今でも、犬には近づけない、という人のことをテレビで見た。
クマさんとヒトの関係も同じではないのかな。
伝統的に「春熊猟」は、昔から行われてきた。それが禁じられて何年になったか。
穴籠り中、出産した母グマは、「ホーリャ」「ホーリャ」の、掛け声と、銃声に追われ、山を逃げ回った。
子グマは、どんなに恐ろしかったろう。
それが、強烈な記憶として残り、生涯、人を避けるようになったのではないか。
「春熊猟」は、復活すべきではないか、と思うのである。
ただし、綿密な生息数の調査や、「子連れ」の捕獲禁止等を含め、充分検討された、その後である。
例えば、子連れの場合は、弾が当たらぬよう発砲し銃声を聞かせ、ヒトの怖さを教えるのである。
「それは、目的外発砲だ」などとヤボなことは言わず、当局者も立ち会って、萌えだした新緑の中、タムシバ、ヤマザクラの咲く春山にご一緒しませんか。
そうすれば、「狩り」の魅力の一端となりともご理解頂けるのではないかと思います。
人類発生以来、諸説はあるようだが、約五百万年ヒトが農耕を中心とし、定住するようになったのは、わずか八千年前と言われる。
それまでの長い長い時を、ヒトは狩猟採集をして生き続けてきた。ヒトのDNAは、わずか一万年や二万年では、変わらないと言われている。とすれば、誰もが狩りや採集の歓びを感じるDNAを持っている筈である。
アルセーニエフの「デルスー ウザーラ」や「フォークナー」の狩猟物語「熊」などは、滅びゆく自然や、その中で生きた狩人、更には、狩猟文明へのオマージュであろう。
私たちの時代で「狩猟」を終わらせてはいけない。私たちは、自然を愛し、野生鳥獣を愛する「狩人」である。そのDNAは当然、次の世代にも引き継がれているはずだからである。
何だか、とりとめのない雑文になってしまいましたが「狩り」を愛し、その存続を願う八十歳を超えた狩人の繰言とご容赦下さい。