公益社団法人岩手県猟友会

よもやま話

マタギになったきっかけと現在

宮古地区猟友会 西村昭二

 今から17~18年前のことですが、お正月に「はっつぁん」と呼ばれていたマタギから電話があり「熊、獲ったがら食いさこねぇが!」と誘いがありました。私は、好奇心旺盛な性格なので、「今から行きます。」と言い、当時、はっつぁんと一緒に熊獲りをしていた親方の「哲朗さん」の家に行きました。私は既に食べるばかりになっていると思い、祝いの酒一升を持って行きましたが、そこにはまだ解体中の熊が転がっていました。「待ってたぞぉ!」と言われ、そして解体を手伝うことに…。動物の解体などしたこともありませんでしたが、気分が悪くなることも無く、なんとか教わりながら解体を済ませました。そのまま熊汁を作って食べ、その味に感動したのを今でも鮮明に覚えています。そして、マタギ達の話を聞きながら飲み食いをし、話を聞いているうちに俺はこの世界に入りたい、マタギになっていつもこんな美味しい熊汁が食いたい。そう思ったのがきっかけです。

 後日、はっつぁんに「俺も、熊獲りになりたい。」と相談しましたが、よい返事がもらえなく「哲朗さんに相談してみる。」と言われました。数日後電話がきて、熊獲りに山へ連れて行ってもらうことになりました。要は試験です。その日熊はいませんでしたが、一日ついて歩くことが出来ました。なんとかマタギ試験に合格し、それから免許を取得し、銃も買い、犬も飼うことにしました。

 そして待ちに待った11月15日、熊獲りデビューしました。準備万端のつもりが無線機を忘れて追い人(ぼいと)から立ちに入ることになりました。立ちに入って一時間位過ぎたとき、向山の笹薮から大きい熊が、ガサガサと大きな音を立てて下りてきて、私の視界に現れました。私は銃を構え狙っていましたが熊が道路まで降りてしまい、講習で習った「道路では発砲してはいけない。」と言うことを思い出し発砲するのを止めました。今度は熊が道路から川に降りるのを待ち猛ダッシュで追いかけました。しかし、熊のほうが何枚も上手、そこには熊の姿がどこにもありませんでした。仲間に連絡したくても無線機がなく、近くの仲間の所まで走り、熊を逃がしたことを報告し、仲間に謝り反省をしました。結局、その年は12月に怪我をして1シーズンを棒に振り終わってしまいました。私は次の年から熊獲りのために新里の和井内に移り住み、熊獲りついて勉強しました。毎晩のように哲朗さんの家に通い、熊を獲ったときの話を聞いたり、地図を買い、沢々(さわざわ)、洞々(ほらぼら)の名前を聞いて書き込み、そしてマタギ語(マタギ語は英語より難しい)を教えてもらいました。二人の師匠に恵まれて、私はなんとか現在も熊獲りをしています。

 「哲朗さん」「はっつぁん」この二人は、日本一を争う熊獲りだと思います。悲しいことに数年前に「はっつぁん」は事故により亡くなってしまい、「哲朗さん」とは別々に熊獲りをしていますが、二人の師匠に出会わなければ今の私は無かったと思います。

 そして現在の私は、岩手県猟友会青年部の副部長として県内各地で仲間と共に、新人ハンター育成と、担い手確保の活動をしていますが、一番は良い師匠との出会いだと教えています。最近、有害鳥獣捕獲事業で報酬目当てのハンターも増えていますが、私が二人の師匠に教えてもらった真のマタギという伝統文化と、マタギとしてのモラルをこれからの仲間たちに伝えていくことが私の使命だと感じています。それが二人の師匠に対する恩返しにもなると信じています。

 森の番人として山の恵みに感謝しながら…